独立回復の後、一番注目すべきことは、現存する一番古いデザイン団体である大韓産業美術家協会が1945年に誕生したということである。ハン・ホンテックを中心にしてデザイナー、画家、広告人、コピーライターなど多様なデザイン分野の人材が集まり創立された。そしてハン・ホンテック以後、李根培、パク・スンイ、ユンビョングギュ、イ・インザ、ぺく・クムナム等の参加によって発展しながら、現在までデザイン団体として旺盛な活動を展開している。 独立回復後の混乱期が過ぎ産業生産施設が建設されはじめると、デザインは本来の役割を果たすようになった。1952年には起亜自転車が'千里'号を生産。さらに1955年には国内最初の組み立て自動車'始発自動車'が生産された。また1957年には金星社(LG電子電信)が設立され、その後の韓国の家電産業をリードしていくことになる。韓国最初のラジオである金星社A-501が生産されたのは、1959年である。 1957年には韓国工芸示範研究所が開所されて、工業製品コンサルティングや留学生制度などを通じて韓国の初期デザインの発展に大きな貢献をした。 この時期は米軍からの放出品が、デザインに影響を与えた。.各種チョコレート、ガムなどの包装やデコレーション雑誌に登場する文様などが、当時のデザイナーたちのデザインソースだったのである。 一方国家や企業、ジャーナリズムなどは、この頃から産業生産を支援するためにデザインを育成して振興する事業に乗り出した。すなわち朝日広告創作賞,中央広告大賞などが制定されたり、ソウル大付属韓国工芸デザイン技術研究所のような研究機関が国内にはじめて設立されたのである。社会的な要求によって専門的なデザイナーを養成する必要があり、これに合わせて大学でデザイン専攻学科が次々と開設された。これにより多くのデザイナーたちが輩出されて銀行やデパート、製薬会社などで活動することになり、デザインの領域がより専門化されて多様化されていった。
産業生産が軌道に乗り大量生産された製品が広く行き渡るにつれデザインの需要は益々増加し、輸出に総力を傾ける産業界からは競争力あるデザインの必要性がいっそう叫ばれるようになった。“美術輸出”というスローガンを掲げた朴正煕大統領の意向により、輸出品の質的向上に果たすデザインの役割が大きく期待されるようになった。その結果通産省主催で1966年大韓民国商工美術展覧会が開催されて、デザインの質的水準向上に牽引車の役割を果たした。そして1970年には政府のデザイン振興機関が、韓国デザイン包装センターに改編された.これを通して輸出のパートナーであるデザインの役割が強調される一方、デザイン分野育成の基礎が本格的に体系化され公式化されはじめたともいえる。 1972年には韓国グラフィックグデザイナー協会(KSVD)が創立され、学閥を超越したグラフィック団体として80年代後半までグラフィックデザイン界をリードして旺盛な活動を展開した。また慶釜高速道路完成で全国が一日生活圏に入るようになったしTVと冷蔵庫、ラジオ、ステレオなどのような家電製品が家庭毎に広く普及された。ソウル地下鉄1号線の開通など国力の増大が目に見えるかたち現われ始めると、「私たちもやればできる」という自信感が人々にあらわれてきた。またコカコーラなどのような多国籍製品も上陸し、そのために大量に溢れ出はじめた広告の制作・掲出を代行する専門広告代行社が設立されたのもこの頃のことである。