大 阪 市 総 合 博 物 館
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歴史及び発展過程

↓太極旗
朴泳孝が考案した太極旗(1883年)
 1880年頃、韓国を取り巻く状況は霧の中のように見通しのわるいものであった。列強がひしめく中で韓国が進む方向を見つけることは困難であり、同時に西欧文化が急速に流入し、混沌の時期にあったといえる。
 1883年は、韓国デザイン史のうえで重要な時期である。この年、朴泳孝の考案した太極旗がはじめて国旗に決まった。国家の代表的アイコン(Icon)が形成されたのである。また韓国最初の近代的印刷施設である博文局が設置され、ここで制作された初のハングル書体の活字を使って「漢城旬報」が創刊された。甲申の変が起きた翌1884年には郵政局が設置されて、初めて切手を発行している。さらに最初の民間出版社である廣印社が設立されて石版印刷機を含め最新印刷設備を導入したのもこの年である。
 1884年、「漢城旬報」に韓国の最初の本格的な商業広告である"世昌洋行(セチァンヤンヘン)"広告が掲載された。また「独立新聞」の紙面も、広告の活用性を高めるのに大きく寄与した。

左:「漢城旬報」韓国の最初の新聞(1883年)

中:世昌洋行 国内最初に載せられた「セチャンヤンヘン」の広告(1886年)

右:「少年」韓国最初の雑誌形式の出版物(1895年)

「朴家粉」韓国ではじめて製造・販売された化粧品


「朝鮮博覧会」景福宮で大規模に開催された朝鮮博覧会の関係葉書(1929年)
 1910年、日韓併合で韓国固有の文化が衰退し、共に数多くの工芸職人たちが消えて行った。幸いにもイム・スックゼ、イ・スンソク、カン・チャンウォン、ハン・ホンテックといった先覚者たちが、日本に留学して先進デザインを国内に紹介した。彼らによって韓国のデザイン教育の基礎が成立した。
これら先覚者を含めた多くの芸術家たちは日本の圧迫にもかかわらず、独立が回復されるまで韓服を着た女性や亀船、虎、背負子、竹、菊、楊柳、太極など様々な文様や色彩、スタイルなどの韓国的視覚素材を登場させて、無言で抵抗の意志を見せていた。
 1910年創立の漢城広告社を筆頭にペクヨン社(1921年)、開闢社の上空美術図案部(1922年)という広告代理店の活動があったし、 1926年には東亜日報社の広告図案選抜大会が、また1938年には商業美術展覧会が開催された。
 日本の弾圧で当時の韓国内の生産基盤は壊滅的な状態だった。ただ製薬業と印刷業そして家内工業のような劣悪な工場のみが残っていた。1944年には京城起工(キア産業電信)が設立されたが、生産されたのは自転車を含めた簡単な製品だけであった。しかし後に韓国屈指の企業となるものの中には、この頃から自立の道を歩んだ小規模の企業が母胎になっているものも多い。トゥサン、キア、仙境、朝興銀行などを含めて、柳韓洋行、同和薬品など大手の製薬業者などがこの頃、創立された企業である。

左:「朝鮮日報」文化政策の一環で創刊された(朝鮮日報)(1920年)

中:クリスマスシール(1933年)

右:ポスター 日本強占期の宣伝ポスター(1920年)
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