6.25動乱米国務省所管国際協力所(ICA)の開発国サポートプログラムによって設立された韓国工芸示範所は、アメリカの著名なデザイン会社の支援プログラムを通じて、韓国デザインの水準を高める活動を展開した。活動のなかで特に意味ある活動は有能なデザイナーを選抜してアメリカ留学に送る制度を実施したことである。毎年2名ずつ選抜され、‘デザイン教授要員海外研修プログラム'によって初年の1958年にはミン・チォルホン、キム・チョンス、1959年にはコン・スヒョン、ベ・マンシ、1960年にはイ・ジョンフン、キム・イッヨンなどがアメリカ留学の機会を持つことができた。 彼らは帰国後に大学教授に就任した。ミン・チォルホンソウル大学教授(イリノイ工科大学でインダストリアル・デザイン専攻)、コン・スヒョンソウル大学教授(クリーブランド美術大学でグラフィックとインダストリアル・デザイン専攻、副専攻陶磁デザイン)、ベ・マンシ梨花女大学教授(フィラデルフィア美術大学でファブリック・デザイン専攻)などである。 特にミン・チォルホンはイリノイ工科大学で受講した近代デザインの内容を、ソウル大学教授として教育課程を通じて後進に伝えることで韓国内に移植した。ミン・チォルホンのイリノイ工科大学留学に対する意義は、それ以前には間接的な経路を通じてしか入ってこなかった近代デザインを、直接アメリカに留学して習得し、大学教育を通して後進を育成することで引き継いだということである。バウハウスから出発した近代デザインの水脈は、モホリ=ナギがシカゴに設立したニューバウハウスを経てイリノイ工科大学に繋がり、留学したミン・チォルホンによって韓国内に流入したのである。
イ・サンチォルは韓国ではじめてグリッド・システムを雑誌編集デザインに取り入れて、体系的なデザインを押し進めたデザイナーであった。スイスで始まったグリッドを利用したこのデザイン・システムは、合理的で正確なデザイン手法であったため全世界に急速に普及した。60年代には各国で取り入れられ、大部分のデザイン分野で適用された。日本でも東京オリンピックのデザインワークに積極的に活用され、これにより日本のデザイン水準は急激に高くなったという評価を受けることになった。韓国ではこれより約10年遅れてグリッド・システムを使ったデザインが定着した。1976年に創刊された文化教養誌「根深い木(プリギブウンナム)」の編集デザインにイ・サンチォルが初めて取り入れたのである。それ以前には活版印刷に使ったフレームに嵌め込んだ文選型に限定されていたが、この雑誌のアート・ディレクションでは、合理的かつ体系的でありその一方で有機的に変化が可能なグリッド・システムを使うことで、独特のフォーマットとしなやかなレイアウトを実現した。以後雑誌毎にグリッド・システムを利用した編集デザインが一般化していった。さらに、広くほかのデザイン分野でもグリッド・システムの活用が進められた。 →イ・サンチョルによるグリッド・システムを導入した雑誌