大 阪 市 総 合 博 物 館
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 西洋を三度も見学した経験を持つ福沢は、1882年「時事新報」を創刊発行し、全権大使かたがた修信使として日本へ来た朴泳孝にこの上なく大きな影響を与えた。朴泳孝の要請によって印刷施設の韓国内設置に関する手助けをしている。それがゼドンに設置された博文局である。ここで最初の新聞型官報である「漢城旬報」が1883年10月から発刊されて、印刷の新しい歴史がはじまった。福沢の紹介で博文局に採用され「漢城旬報」の編集に携わった井上角五郎(1860〜1938)は、甲申の変にも深く関与した。それは日韓併合の歴史的な出発点となるもので、結局福沢は韓国とは不幸な関係をもつこととなる。しかしその一方韓国近代印刷史を創始させた人物として、高く評価しなければならないのも事実である。

 1898年、福音合資会社を設立しその時から東南アジア各区の聖書と教会書籍の大部分を印刷した。マニラ、シンガポール、タイ、広東、台湾、満洲、モンゴル、アメリカなど50カ国の活字を取り揃えて書籍印刷にあたった。1904年には福音印刷会社の支店を神戸に設置、1912年には事業を拡張し工場を山下町104番地に移転している。1914年、福音印刷株式会社と改組。彼は篤いキリスト教信者であると同時に、事業家としても活躍した。

→福音印刷株式会社社屋
 日本の王子製紙は1872年、渋沢栄一が抄紙会社を創立し、東京の王子に工場を建設(操業は1875年から)したことが始まりであった。やがて発展したこの会社で専務をつとめていた藤原は、海外進出の第一歩として1919年8月新義州に朝鮮製紙の工場を建設した。韓国の近代製紙業の始まりであった。以後、藤原は朝鮮製紙社長に就任し、同社の発展に大きな功績を残した。

 電通の京城支局は光永よって、京城の明治町一丁目に開設された。広告及び通信社して電通が創立されてから6年が経った1907年4月16日のことである。「電通史」によれば「東京、大阪にある新聞社も京城に支局を持っていない時、もう電通は支局を設置して活発にニュースを受信していた」という。 1917年3月当時、電通の社員名簿を見ると日本以外に支社・支局は2ヶ所あり、名称は朝鮮支社と北京支局である。この朝鮮支社には初代支社長だった牧山耕蔵のほかに編集部員として7名の名前が挙げられている。

→電通朝鮮支社
 韓国で活躍した多くの外国の画家たちの中で、注目すべき者としてエリザベス・キースがいる。彼女はすぐれた油彩作品以外にも銅版及び木版画を多数残している。キースはイギリス王室の肖像画を描いたこともあったと伝えられているが、彼女が韓国との関連を持ち始めたのは、1919年の3.1運動直後に姉と一緒に初めて韓国を訪問し3ケ月間滞在してからである。滞在中、彼女は韓国人の生活ぶりに深い関心を持ってソウル、ウォサン、咸興、平壌、リンガンサン等を旅行しながら、風景と風俗を主題に作品を制作した。キースは1921年9月20日と22日両日間ソウルの長谷天井(現在の小公洞)の銀行集会所で第1回個展を、1934年2月頃には三越(現・新世界)百貨店画廊で第2回を開催した事があり、東京でも韓国を主題にした作品で展示会を開いた。彼女の作品はすぐれた描写力と原色による新鮮で装飾的な色彩、安定した構図など鮮やかな臨場感を感じさせる。彼女は日本で浮世絵を学んだ経験をもつが、作品からはその影響を全く感じることができないほどに韓国的な線描と色彩を使っているといえよう。

→エリザベス・キース作品
 ポール・ジャクレーは1896年1月23日フランス・パリで生まれた。父フレデリックは日本高等商業学校付属外国語学校のフランス語教師であった。彼はこれがきっかけで、1899年母と一緒に来日して東京高等師範学校付属小学校と中学校を卒業した。1907年にはしばらく帰国し、後に再来日して白馬会(1896~1911)研究所において黒田清輝に油絵を学ぶ一方、池田輝方に日本画を学んだ。彼は1931年から浮世絵を制作し始めた。1933年にはザクルレ版画研究所を設立し作家活動を始めた。彼の作品は題材を韓国人、韓国風物にもとめたがキースとは違い、浮世絵の強い影響と西欧人として彼が持っている内面の世界が表現されて奇妙な仕上がりを見せている。ジャクレーは異国を憧れるナルシシズムに捕らわれて南太平洋島を何回も旅行しながら、一番近い韓国は一度も訪問せず自分の研究所で作品を制作した。浮世絵に見られる細い線描と派手な色彩が強調される独特の日本的感性と、西欧'アールヌーボー'の装飾的雰囲気を奇妙に混合させて韓国を表現した。彼の作品は現実的対象を描いたというよりは、アトリエで描かれたスタジオ画の典型を見たような印象を持たせる。このような作品を見る限り、ジャクレーが韓国の情緒と美意識を深く理解することができなかったのではないかという疑念を否定することはできない。

 出版に関心が高かったカナダ人宣教師ゲールは1889年以後40年間韓国で活動した。ゲールはバニアン(John Bunyan)が書いたキリスト教布教小説を翻訳してキム・ジュングンに挿絵を依頼、〈天路歴程〉という題名で1894年木版で出版した。彼はまたキースの姉であるエルスペット・キース・ロバートソン・スコット(Elspet Keith Robertson Scott)に、彼が英訳したキム・マンジュン(1617~1682)の「九雲夢:The Clond Dream of the Nine(1922 ロンドン)」に収録する16カットの挿し絵を依頼したこともある。

→ポール・ジャクレーの描いた浮世絵
 韓国の近代出版文化の土台を成した主力は、西欧から来た宣教師たちであった。なかでも韓国布教の任を負い、このために投獄されながらもたゆまぬ努力をしたのがリデル司教である。1845年に入国したダヴェルイ(Daveluy)司教が長い間かけて漢韓仏の三カ国語辞書の準備をするが、1866年迫害により押収されすべての資料が失われた。リデル司教はこの事業を引き継ぎ辞書の編纂に従事したが、後にこの作業を建築、写真、出版など多岐にわたる芸術分野にすぐれた才能をもつコスト(J.Coste)神父に任せ、自分は当時の朝鮮に潜入して布教に専念した。しかし原則的に布教が禁止されていた朝鮮では活動が許されるはずはなく、逮捕された後かろうじて生きて国外に追放された。1880年に日本に渡り、コスト神父が担当していた辞書編纂事業を指導した。1880年末ツェジヒョック字体で、「日本の声(Echo du Japon)」という雑誌を発行していた横浜のレビー印刷所(C.Levy,Imprimeur-Libraire)で歴史的な「韓仏辞書」を刊行した。

 リデル司教と並んで韓国出版史の発展に寄与したひとりにジョン・ロス牧師がいる。スコットランド長老派教会に属し、当時の満州にいたロスは彼の弟であるマッケンタイヤーと一緒に1873年から朝鮮との国境で朝鮮の人々と接触していた。1877年には義州商人イ・ウンチャンとソ・サンリュンの助けを借りて、朝鮮で布教活動を行う宣教師のための朝鮮語入門書を発行した。またこの時からヨハネ福音書をはじめとする新約聖書の翻訳にも取りかかり、以後1881年9月から印刷をはじめ次々に刊行した。1882年「イエスションギョヌガボックンジョンショ」をはじめとして、1887年には韓国最初の新約聖書「イエスションギョジョンショ」を刊行するに至った。

→ジョン・ロス発行の書籍

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